種と個体:終末期ケアと社会

終末期ケアの資格各論 | 記事URL


さて、種は種個体群として存在し、種個体群とは同一の種に属する全個体の集合だということは、これでよしとしよう。しかし、ここでは種の定義の中に「同一の種に属する」ということばがでてくる。これでは堂々めぐりになる。同一の種に属するかどうかをどのように判定するかをべつのことばで規定せねば、定義としては意味をなさない。

二つの動物が同じ種に属するかどうかを判定する基準をたてることは、じつはたいへんむずかしい。分類学者は昔からこのことで頭を悩ましてきた。(…ことにかく、高等動物については、二つの個体が相互に交配可能な場合、両者は同じ種に属するとみなされる。ここで相互交配が可能というのは、単に交配(交尾)がおこなわれて、子が生じるということではなく、その子がまた生殖能力をもつことまでふくめている。ロバとウマは比較的容易に交尾をおこなってラバを産むけれども、ラバは生殖能力をもたないから、ロバとウマは別種の動物である。 一方、イヌはあれだけ多くの品種があっても、ほっておけば相互に交配していわゆる雑種の子を産み、この雑種の子はちゃんと生殖能力をそなえているから、すべてのイヌはイヌという同一の種に属することになる。」(『動物にとって社会とはなにか』講談社学術文庫、 一六―一九ページ)




つまり、「種」という概念をもちだすのであれば、種とはその種に属する全個体の個体群という形で存在しているものである。したがってわれわれは一日で種というものを見ることはけっしてできない。われわれが見ることのできるのは、つねにその種個体群のメンバーである個体でしかないのである。種はそれら個々の個体を包みこんだ何か超越的な存在のような気もしてくる。




しかもこの個体というのは多様である。人間という種で考えてみれはすぐわかるように、個体には男もいれば女もいる。大人もいれば子どももいる。少年もいれば少女もおり、おじいさんもいれば老婆もいる。とくに男と女のちがいは明瞭である。このような多様性を包みこんで、人間という種、つまり種個体群は存在しているのである。種ということを回でいうのはたやすいが、それを正しくイメージしようとしたらきわめてむずかしいのも、このような事情によるのである。




個体と対比されるもう一つのものは、「社会」である。「個と社会」という対立概念は、近代において昔から論議されつづけてきた。人間をHomo Sociusと定義し、人間は社会なしには生きられないという立場から個が論じられたこともあるし、今日と同じく「個」がやたらと強調されたこともあった。




いずれにせよ、近代が個の確立を標榜するかぎり、個と社会の関係は人間にとって避けて通れぬ問題であった。ところが困ったことに、「社会」という概念は、まったく勝手気ままに使われているのである。




日常目にすることばを思いつくままに拾ぅてみるだけでもそれがわかる。人間社会、社会人、地域社会、社会福祉、家族社会、男社会、社会主義、母系社会、生物社会、社会性昆虫……。




一見自明のように見えるが、 一歩つっこんで考えてみたら、いったいそこでいわれている「社会」とは何を意味しているのか、他の用法での社会とどのような共通性をもっているのか、ほとんどまったくわからないのが実情である。



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