種と個体:終末期ケアに見える世界

終末期ケアの資格各論 | 記事URL


われわれはごく気軽に「種族と個体」、「種と個体」などという。「個体」というものは何となくすなおにわかったような気がする。それでは「種」とはどのような形で存在しているのだろうか? ぼくが以前に書いたものの中から引用してみよう。


「地球上にイヌという種の動物が存在している。じっさいにわれわれが見るのは、あなたの庭にすわっているクロやタバコやの前をとことこ歩いているラッシーなどである。


世界中にこういう形でたくさんのイヌの個体が存在している。どのイヌもイヌという種の代表でも典型でもない。ぜんぶで何ビキいるかわからないが、こういう個々のイヌぜんたいをひっくるめて、われわれは抽象的に「イヌ」というもの― ‐ネコともウサギともオオカミともプタともちがう、イヌという種― を認識する。と同時に、われわれが認識するか否かにかかわりなく、イヌという種は、このように個々のイヌ(個体)の集団として、地球上に存在している。術語を使って明確に表現するならば、種は「個体群」(種個体群)として存在しているのである。この種個体群を形成する個体の最後の一ピキが死んだとき、種個体群は消滅し、同時にその種も絶滅することになる。


個体群というと、いかにも群集をなした集団を意味するように感じられる。たとえば、いろいろな植物のいりまじって生えた植物群落、海岸の岩に付着したさまざまの動物や海藻の群集、あるいはアリの社会など。しかしそう思ってはならない。個体群というのは、同じ種に属する動物(広くいえば生物)の、数学的意味における集合である。べつに個体が群れをつくっていなくとも、いっこうにかまわない。北海道に住むイヌは、世界の他の土地に住むイヌと海で隔てられているけれども、やはリイヌという種の個体群(種個体群)の構成メンバーであることにかわりはない。それは、イヌの種個体群の部分個体群なのである。その意味で種個体群というものは、クラブのようなものである。その加入者はどこにいてもそのクラブのメンバーである。
ただひとり孤島に流れついたロビンソン・クルーソーは、依然として人類種個体群のメンバーであらた。それは彼がのちにイギリスヘ帰り、家族をもったり、他のヨーロッパ人と共に中国を探険したりしたからではない。人類の一個体であった彼は、死ぬ以外には、人類種個体群のメンバーであることから逃がれられないのである。種個体群というのは希望して入る会員制のクラブではないからである。


ある動物個体がある種に属しているということは、いいかえれば、その種の種個体群のメンバーであるということである。そして生物はかならずどの種かに属しており、どの種にも属さない個体というものはない。つまり、ある個体はかならずどれかある種個体群に属しているわけである。植物の群落は、いろいろな植物の種個体群の部分個体群のからみあったものである。



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