近代以前の日本人の死生観(日本の自然条件)

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人の心のあり方や思考・認識の枠組みは、先立つ時代から受け継がれてきた伝統に強く影響される。ことに死生をめぐる観念は人の心の深層に根をおろしており、過去の体験の蓄積を吸いあげつつ生成されるものであるから、現代の人間も知らず知らずのうちに過去の影響を強く受けているものと考えられる。

残念ながら、日本人の死生観に関する書籍や資料の大半は、明治以降の近代に関するものに限られ、時代をさかのぼるにつれて情報は急速に乏しくなる。死生観をめぐる歴史を振り返ることは、有意義であるが容易ではない。
近代以前の日本の歴史とその背景の中から、今日の日本人にも影響を及ぼしているいくつかの要因を取り上げて検討する。
日本の国土はいわゆるモンスーン地帯にあり、日照と降水量に恵まれて豊かな実りを約束するいっぽう、大きな自然災害をもたらす危険が常にあった。台風による風水害と地震の惨禍はその代表的なものであり、このような巨大災害が穏やかで恵みに満ちた日々の中に突如として介入してくることは、日本人の生活と思考の様式に大きな影響を与えてきた。
天災は突然襲ってきて大きな惨禍を残すが短時間の後には過ぎ去っていき、その後はまた何ごともなかったかのようにのどかな日々が戻ってくる(「台風一過」)。それは慈愛に満ちた母なる自然の、恐るべき豹変と受け止められたであろう。近代以前の人間には台風の襲来を予測することは不可能であったし、地震については今も事情に大差はない。「天災は忘れたころにやってくる」(寺田寅彦)とは防災への備えを説いた言葉であるが、計画的な備えでは防ぎきれない自然の猛威に対する恐れをそこに読みとることもできる。
このように気まぐれな自然災害の危険に絶えずさらされる中で、日本人は運命を甘受する受動性や、過ぎたことは水に流して忘れるあきらめの良さを身につけるとともに、一夜明ければ再び前向きに進む楽天的な勤勉さを培ってきた。明治期の「お雇い外国人」として日本の医学教育の設立に貢献したドイツ人ベルツが、来日直後の東京で大きな火災の直後に見いだしたのは、このような民衆の姿であった。



日本人とは驚嘆すべき国民である。火災があってから36時間たつかたたぬかに、はや現場では、せいぜい板小屋と称すべき程度のものではあるが、千戸以上の家屋が、まるで地から生えたように立ち並んでいる。(中略)女や男や子供たちが三々五々小さい火を囲んですわり、タバコをふかしたりしゃべったりしている。かれらの顔には悲しみの跡形もない。まるで何事もなかったかのように、冗談をいったり笑ったりしている幾多の人々を見た…(『ベルツの日記』1876(明治9)年12月1日の記載から)



こうした観察からさらに踏み込んで、日本の社会そのものが防災共同体の性格を色濃く備えており、欧米型の政治共同体と対照的であると指摘するものもある。いっぽうで自然の猛威に対する人間の無力は、後出の『方丈記』に見られるように無常観や現世忌避。来世待望を促すものとしても作用した。自然のもたらすインパクトはこのように多様かつ深いものであり、阪神淡路大震災や東日本大震災はそのことをあらためて想起させたともいえるだろう。



種と個体:終末期ケアに見える世界

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われわれはごく気軽に「種族と個体」、「種と個体」などという。「個体」というものは何となくすなおにわかったような気がする。それでは「種」とはどのような形で存在しているのだろうか? ぼくが以前に書いたものの中から引用してみよう。


「地球上にイヌという種の動物が存在している。じっさいにわれわれが見るのは、あなたの庭にすわっているクロやタバコやの前をとことこ歩いているラッシーなどである。


世界中にこういう形でたくさんのイヌの個体が存在している。どのイヌもイヌという種の代表でも典型でもない。ぜんぶで何ビキいるかわからないが、こういう個々のイヌぜんたいをひっくるめて、われわれは抽象的に「イヌ」というもの― ‐ネコともウサギともオオカミともプタともちがう、イヌという種― を認識する。と同時に、われわれが認識するか否かにかかわりなく、イヌという種は、このように個々のイヌ(個体)の集団として、地球上に存在している。術語を使って明確に表現するならば、種は「個体群」(種個体群)として存在しているのである。この種個体群を形成する個体の最後の一ピキが死んだとき、種個体群は消滅し、同時にその種も絶滅することになる。


個体群というと、いかにも群集をなした集団を意味するように感じられる。たとえば、いろいろな植物のいりまじって生えた植物群落、海岸の岩に付着したさまざまの動物や海藻の群集、あるいはアリの社会など。しかしそう思ってはならない。個体群というのは、同じ種に属する動物(広くいえば生物)の、数学的意味における集合である。べつに個体が群れをつくっていなくとも、いっこうにかまわない。北海道に住むイヌは、世界の他の土地に住むイヌと海で隔てられているけれども、やはリイヌという種の個体群(種個体群)の構成メンバーであることにかわりはない。それは、イヌの種個体群の部分個体群なのである。その意味で種個体群というものは、クラブのようなものである。その加入者はどこにいてもそのクラブのメンバーである。
ただひとり孤島に流れついたロビンソン・クルーソーは、依然として人類種個体群のメンバーであらた。それは彼がのちにイギリスヘ帰り、家族をもったり、他のヨーロッパ人と共に中国を探険したりしたからではない。人類の一個体であった彼は、死ぬ以外には、人類種個体群のメンバーであることから逃がれられないのである。種個体群というのは希望して入る会員制のクラブではないからである。


ある動物個体がある種に属しているということは、いいかえれば、その種の種個体群のメンバーであるということである。そして生物はかならずどの種かに属しており、どの種にも属さない個体というものはない。つまり、ある個体はかならずどれかある種個体群に属しているわけである。植物の群落は、いろいろな植物の種個体群の部分個体群のからみあったものである。



種と個体:終末期ケアと社会

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さて、種は種個体群として存在し、種個体群とは同一の種に属する全個体の集合だということは、これでよしとしよう。しかし、ここでは種の定義の中に「同一の種に属する」ということばがでてくる。これでは堂々めぐりになる。同一の種に属するかどうかをどのように判定するかをべつのことばで規定せねば、定義としては意味をなさない。

二つの動物が同じ種に属するかどうかを判定する基準をたてることは、じつはたいへんむずかしい。分類学者は昔からこのことで頭を悩ましてきた。(…ことにかく、高等動物については、二つの個体が相互に交配可能な場合、両者は同じ種に属するとみなされる。ここで相互交配が可能というのは、単に交配(交尾)がおこなわれて、子が生じるということではなく、その子がまた生殖能力をもつことまでふくめている。ロバとウマは比較的容易に交尾をおこなってラバを産むけれども、ラバは生殖能力をもたないから、ロバとウマは別種の動物である。 一方、イヌはあれだけ多くの品種があっても、ほっておけば相互に交配していわゆる雑種の子を産み、この雑種の子はちゃんと生殖能力をそなえているから、すべてのイヌはイヌという同一の種に属することになる。」(『動物にとって社会とはなにか』講談社学術文庫、 一六―一九ページ)




つまり、「種」という概念をもちだすのであれば、種とはその種に属する全個体の個体群という形で存在しているものである。したがってわれわれは一日で種というものを見ることはけっしてできない。われわれが見ることのできるのは、つねにその種個体群のメンバーである個体でしかないのである。種はそれら個々の個体を包みこんだ何か超越的な存在のような気もしてくる。




しかもこの個体というのは多様である。人間という種で考えてみれはすぐわかるように、個体には男もいれば女もいる。大人もいれば子どももいる。少年もいれば少女もおり、おじいさんもいれば老婆もいる。とくに男と女のちがいは明瞭である。このような多様性を包みこんで、人間という種、つまり種個体群は存在しているのである。種ということを回でいうのはたやすいが、それを正しくイメージしようとしたらきわめてむずかしいのも、このような事情によるのである。




個体と対比されるもう一つのものは、「社会」である。「個と社会」という対立概念は、近代において昔から論議されつづけてきた。人間をHomo Sociusと定義し、人間は社会なしには生きられないという立場から個が論じられたこともあるし、今日と同じく「個」がやたらと強調されたこともあった。




いずれにせよ、近代が個の確立を標榜するかぎり、個と社会の関係は人間にとって避けて通れぬ問題であった。ところが困ったことに、「社会」という概念は、まったく勝手気ままに使われているのである。




日常目にすることばを思いつくままに拾ぅてみるだけでもそれがわかる。人間社会、社会人、地域社会、社会福祉、家族社会、男社会、社会主義、母系社会、生物社会、社会性昆虫……。




一見自明のように見えるが、 一歩つっこんで考えてみたら、いったいそこでいわれている「社会」とは何を意味しているのか、他の用法での社会とどのような共通性をもっているのか、ほとんどまったくわからないのが実情である。



種と個体:終末期ケアを見る目

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終末期ケアにおける死は、個体におこる事象である。絶滅した恐龍のように、種族の死ということもおこりうるし、今日では人類の滅亡、すなわち人類という種族全体の死ということも論じられているが、そのような場合でも―死は一つ一つの個体におこることにかわりはない。

古来、人間が「死」を恐れてきたのは、それが他ならぬ「自分の死」の問題であったからだ。死というものの存在を「発見」してしまった人間は、この自分の死というものとどう闘うか、肉体的には必ず訪れることの明らかな死をメンタルにどう克服するかに懸命になってきたのである。

だれでも知っているとおり、個体に自然死というものがおこらない生物もいる。アメーバや細菌のように、体が二つに分裂して殖えていく生物がそれである。時期がくれば二つに割れ、そのおのおのがまた成長して二つに割れていくのだから、自然死というものは彼らには存在しないのである。

近頃さかんに話題にされるクローン人間になると、話はまったくべつである。ある個体(個人)から細胞をとり、それを出発点として新しい個体を作らせる。こうしてできた新しい個体は、たしかにそのもとの細胞を提供した個体とまったく同じものではあろうけれど、やはり独立した個人であり、もとの個体におけるのと同じように、いずれは死を迎える。

連続性はあるけれども、個体の死というものを免れているわけではない。

そもそも、クローン人間などをもちださずとも、ふつうの人間の場合だって、じつは同じことなのだ。個体の「生命」は、精子と卵子に還元され、それらの合体によって新しい個体ができる。精子、卵子を提供した個体はいずれは死ぬが、「生命」は新しい個体にひきつがれる。つまり、種族としての生命の連続性はあるけれども、それぞれの個体としては死なざるをえないのである。問題はここにあるのだ。



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